新田神社について
御祭神
運を開き守り、幸せを導く霊験あらたかな神様
新田義興公
贈從三位左兵衛佐源朝臣
(さひょうゑのすけみなもとのあそん)
正平13年(1358年)に創建され、新田義貞公の次男で南北朝時代に名を馳せた武将 新田義興公をお祀りしている神社です。
霊験あらたかな、運を守る神様 「新田大明神」として広く崇め奉られ、崇敬されております。
由緒
新田神社は、新田義興公の御霊をお祀りする神社です。
義興公は、新田義貞公の第二子として生まれ、幼名を徳寿丸と称しました。
元服の際、後醍醐天皇より「義貞の家を興すべき人なり」との名を賜り、 「新田義興」と名乗り従五位左兵衛佐に任ぜられました。
後醍醐天皇と徳寿丸(後の新田義興公)
足利尊氏の謀反により父(義貞公)が亡くなりましたが、 義興公は新田一族を率いて南朝の復興に尽力しました。
武蔵野合戦などを始め各地で奮戦され、 義興公の力を恐れた足利基氏・畠山国清は夜討・奇襲を企てましたが失敗に終わります。
そこで畠山は家来である竹沢右京亮と
その一族の江戸遠江守らに命じて卑怯な計略をめぐらしました。
竹沢氏は公家の少将局という身分の高い女性を義興公に献じることで
寝返ったと装い、共に戦おうと鎌倉へ誘い出しました。
正平13年(1358年)10月10日、 多摩川の矢口の渡から舟に乗り、舟が中流にさしかかる頃、 渡し守は櫓を川中に落とし、これを拾うと見せかけて川に飛び込み、あらかじめ穴を開けておいた舟底の栓を抜き逃げました。 舟は徐々に沈み、川の両岸から伏兵に矢を射かけられ、 竹沢・江戸にあざむかれたことを察し、義興公は自ら腹を掻き切り、 家臣らは互いに刺し違えたり、泳いで向こう岸の敵陣に切り込み、 主従14名は、矢口の渡で壮烈な最期を遂げました。
同年10月23日、悪計加担の渡し守は難船で水死し、 江戸遠江守は義興公の怨霊姿に驚き落馬し、 狂ったように七日七晩溺れる仕草を見せ、最期を迎えました。 足利基氏の領地には義興公の怨念と化した雷火が落ちる災いが起き、 竹沢・畠山については、罪悪を訴えたために、逆鱗に触れた足利基氏に攻められ死亡しました。
義興公の誅殺に関わった者が皆亡くなった後も義興公の怨念が 「光り物」となって、矢口付近に夜々現れ、人々を悩ますようになりました。 そこで義興公の怨霊を鎮めるために、 村人たちは墳墓を築き、社祠が建て、 『新田大明神』として広く崇め奉られました。 これが新田神社のはじまりです。
今では「武蔵新田駅」の名前の由来にもなり 霊験あらたかな「運を開き守る神」として深く信仰されています。
昔の新田神社
御霊信仰
御霊信仰とは、 疫病や天災地変の発生は、争いや陰謀で非業の死を遂げた人間の怨霊のしわざであると恐れ、 神社を建てて怨霊を鎮め、祀ることで神格化し、御霊となることで 災禍を逃れ、人々を守る神になるという信仰です。
災いが怨霊による祟りであるという霊魂観は古くから日本にあり、 菅原道真公の鎮魂のため大宰府や北野に天満宮が建立されると 天神信仰が広まることで怨霊という側面が薄れ、「学問の神様」として信仰を集めました。
怨霊はただ祟るだけではなく、その偉大な霊力により災禍を祓いのけることができるとされ 怨念の力が強ければ強いほど加護の力も強いと考えられ、広く民間に普及し信仰が高まりました。
新田神社の御祭神である新田義興公は勇猛果敢な武将ですが、 非業の最期を遂げたことによる人々の畏怖の念から祠を建て、荒ぶる魂を鎮めることにより 怨霊から御霊へと神格化の過程をたどりました。御神徳は義興公の人格や勇気ある行動に由来し、 武運長久・家運隆昌・必勝開運の守護神「新田大明神」として篤く崇敬されています。
矢守 破魔矢の元祖
現在多くの神社で頒布されている破魔矢の発祥は、新田神社にございます。
境内の裏に、源氏の白旗を立てたものが根付いた「旗竹」という篠竹が生えており、 雷が鳴るとピチピチと割れるという言い伝えがあります。
江戸時代、エレキテルなどの発明家として有名な蘭学者・平賀源内が、この不思議な竹で厄除招福・邪気退散の「矢守」を作り 頒布したことで、今では多くの神社で正月の縁起物として頒布されるようになりました。 破魔矢は、災いや魔を打ち破るとされる縁起物です。 神棚やリビング、玄関などにお飾りください。
境内の旗竹(篠竹)
江戸時代の「四神地名録」「江戸塵捨」「十万庵遊歴雑記」の書物に、宝暦1751年~1764年頃から「義興の矢」として、門前の茶店で売られていたと記されています。
この矢を二本を購入し、一本を御神前に奉納し、一本を持ち帰って魔除け「矢守」にしたと伝えられ、新田家伝来「水破兵破 」の二筋の矢に由来します。
この「矢守」が後に平賀源内の提案により、五色の和紙と竹で作り、新田家の「黒一文字」の短冊を付けたものを、魔除けとして売り出すようになったと記録されています。
五色は、上棟祭や鯉のぼりに使用される吹き流しの色と同じで、魔除けの色とされています。
古代中国の陰陽五行説に基づき、森羅万象の性質を「木・火・土・金・水」の五つの元素で成り立ち、 色で表すと「青(緑)・赤・黄・白・黒(紫)」になります。
新田神社の御神木
御神木である当社の当社の大欅は、樹齢七百年に及び、 江戸時代の落雷で幹が半分以上裂けても枯れることはありませんでした。
昭和20年4月の東京大空襲では境内にも焼夷弾や爆弾が落ち、社殿や町もほとんど全焼し欅も一部焼失しましたが、毎年新緑の季節になると青々とした葉を茂らせています。
強い生命力で幾度の難を乗り越えた欅は、「健康長寿」「病気平癒」 「美容」などの霊験があると古来より伝えられています。
御参拝の皆さまへお願い
現在、御神木が傷ついているため、当面の間、御神木に触れないようお願いいたします。
直接触れなくても、祈る・御神木を見上げる・手をかざすことで神気を感じていただけます。
御神木を保護するためにも御協力お願い申し上げます。
末社 稲荷神社
御祭神は宇迦之御魂神。京都の伏見稲荷大社より勧請されました。
江戸時代、矢口村の稲作や農業の守護神として御分霊が祀られたと言われています。
名前の「うか」は穀物・食物の意味があり、「稲荷」はイネナリ(稲成)、稲が育つさまを表しています。 宇迦之御魂神は五穀をはじめ様々な食物を司る食物の神、農業の神として崇敬され、 民間の工業や商業が盛んになると興業の神としての信仰が広がっていきます。
近世になると稲荷大神の広大無辺な御神徳を慕われて崇敬心がさらに広がり、 現在は「五穀豊穣」「家内安全」「商売繁盛」「諸願成就」の神様として信仰されています。
末社の稲荷神社
石の卓球台
2007年、町おこしの一環として「多摩川アートラインプロジェクト」が立ち上げられ、 各駅に彫刻や絵画など、アーティストの作品が飾られました。
そのプロジェクトに携わっていたアートディレクターの一人、浅葉克己氏が偶然新田神社を参拝したことがきっかけで、境内に石の卓球台が奉納されました。
ラケットとピンポン玉を無料で貸出しています。 お気軽に社務所へお声がけください。
貸出時間 9時~17時
雨天時や地面が濡れている場合は貸出を中止いたします
石の彫刻 Love神社
「多摩川アートラインプロジェクト」において、グラフィックデザイナー・浅葉克己氏によって、作製した石の彫刻です。 同氏が当社を偶然参拝されたことがご縁となり、境内には石の卓球台が奉納される運びとなりました。
本彫刻には、参拝された皆さまに幸せが訪れるよう願いが込められており、その祈りが形となった奉納作品です。
境内のloveオブジェ
厄割石と厄割玉
黄泉の国から伊邪那岐命が逃げる際、 追手に桃の実を投げつけ退散させたことから、 桃は邪気をはらい守ってくれる力があるとされています。
厄割の桃玉とは、 日頃の悩みやストレス、厄を桃玉に込めて 厄割石に投げて割る厄落としです。
厄割石は、卓球台の奥にございます。 社務所で桃玉を受け、思いきり投げつけて厄を打ち砕いてください。
初穂料 300円